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空襲やマラリアで仲間が死んでいく…ラバウル“南方戦線”で16歳の少年が目にした地獄【佐賀県】
2023/08/09 (水) 18:20
16歳のときに飛行機を修理する工員として徴用された武雄市の男性。日本から5千キロほど離れたいわゆる“南方戦線”で少年が目にしたのは空襲や感染症で命を落とす仲間の死でした。
「折からの密雲を利し我が戦闘機のよう撃を免れて、敵編隊“ラバウル”上空に侵入。地上砲火、一斉に火を吐く」
【平原篤さん(95)】
「もう恐ろしいというばっかり。『またきょうもやられて死んだ』今度はマラリアで死ぬ…地獄地獄」
約20万人が命を落とした激戦地パプアニューギニア。
武雄市武内町に住む平原篤さん95歳。
平原さんは今から80年前の1943年、戦地に向かうよう命じられます。
このころの日本では労働力不足を補うため性別や年齢に関わらず軍需工場などで働かせていました。
国民徴用令ともいわれ16歳だった平原さんも工員として戦地へ向かいます。
【平原篤さん(95)】
「『もう敵にやられるばい』と思っていた。内地から出たら途中でやられてしまう。飛行機からやられると。もう、死ぬ覚悟で」
平原さんが降り立ったのは、日本から約5000キロ離れたラバウル。
アメリアやオーストラリアとの戦いの最前線で、日本海軍の大規模な航空基地があり連日、激戦が続いていました。
約10万人の兵が駐留し、平原さんは飛行機の修理にあたっていました。
【平原篤さん(95)】
「先輩から習って『道具は何をやれ』『これをやれ』って言われてやるばかりで修理はしきらんとよ。飛行機の車輪の取り外しやら何やら、そういうのをしていた」
当時、連合軍の反撃が本格化していて、平原さんが配属された基地でも1日に何度も空襲に見舞われました。
激しい爆撃の下では生と死は紙一重でした。
【平原篤さん(95)】
「空襲で機銃掃射って、バリバリバリ!って急襲する。ヤシの木がこんなに小さいのに体を小さくして隠れたり、べたっと伏せたりしていた。毎日空襲があるとやけん。『こんだ死んだ』『こんだ死んだ』って思ったのよ」
16歳だった平原さんは同世代の仲間の死を目の当たりにします。
【平原篤さん(95)】
「爆弾の破片があるわけたい、破裂してピューピューと飛んでくる。当たったら死ぬわけよ臓物、ここの臓物がベラっとひっと出てきて倒れる。仲間とか色々見てきた」
さらに追い打ちをかけるように日本軍を苦しめたのが高熱が出る感染症の“マラリア”です。
内地から食糧や薬が満足に輸送出来ず、感染した場合、重症化する兵隊も多く、毎日のように死者が出ていました。
【平原篤さん(95)】
「もう熱が出てつらくなると飯も何も食べきれないから痩せて骨ばかりになって死ぬ。ちょっとまあ、思い出してたら本当に…うん。仲間がいたが、死んでしまった。『元気に内地へ帰ろうの』と話していたけどね、それでも亡くなって、マラリアで」
太平洋戦争で亡くなったとされる日本軍の戦没者は約230万人。
一説では病気や餓えによる戦病死が6割を占めるといわれています。
幸いにも平原さんは感染することなく終戦を迎えました。
終戦から約8カ月後、汽車で佐賀に戻った平原さん。
迎えに来た兄は泣いて喜んでくれました。
【平原篤さん(95)】
「空襲を受けてやおーなかった(大変だった)ろうなとおっとろしか(恐ろしかった)ろうなと言っていた。それでも元気に帰ってきたからよかったなと」
多くの友が戦死するなかでの帰還。
当時のことを思い出すと今も、自責の念にかられるといいます。
【平原篤さん(95)】
「ちょっともう何とも言えんね…仲間が死んで、自分ばかり生きとったということに後悔はあるよやっぱり『すまんなぁ』と思うよ」
戦後は農家となり、2人の子供や孫に恵まれた平原さん。
これまでラバウルで目にした惨劇はあまり人に聞かせることはありませんでした。
【平原篤さん(95)】
「若者に話しても本当のことと思わないよ。『がんやったばい』と言っても本当のことと思わないさ。だからおいもあんまり言わない。黙っている。聞かれたら『こうだった』と言ってもいいけれど若者に話しても本当のことと思わないもん。『こうだったばい』と言うだけじゃダメ…」
「折からの密雲を利し我が戦闘機のよう撃を免れて、敵編隊“ラバウル”上空に侵入。地上砲火、一斉に火を吐く」
【平原篤さん(95)】
「もう恐ろしいというばっかり。『またきょうもやられて死んだ』今度はマラリアで死ぬ…地獄地獄」
約20万人が命を落とした激戦地パプアニューギニア。
武雄市武内町に住む平原篤さん95歳。
平原さんは今から80年前の1943年、戦地に向かうよう命じられます。
このころの日本では労働力不足を補うため性別や年齢に関わらず軍需工場などで働かせていました。
国民徴用令ともいわれ16歳だった平原さんも工員として戦地へ向かいます。
【平原篤さん(95)】
「『もう敵にやられるばい』と思っていた。内地から出たら途中でやられてしまう。飛行機からやられると。もう、死ぬ覚悟で」
平原さんが降り立ったのは、日本から約5000キロ離れたラバウル。
アメリアやオーストラリアとの戦いの最前線で、日本海軍の大規模な航空基地があり連日、激戦が続いていました。
約10万人の兵が駐留し、平原さんは飛行機の修理にあたっていました。
【平原篤さん(95)】
「先輩から習って『道具は何をやれ』『これをやれ』って言われてやるばかりで修理はしきらんとよ。飛行機の車輪の取り外しやら何やら、そういうのをしていた」
当時、連合軍の反撃が本格化していて、平原さんが配属された基地でも1日に何度も空襲に見舞われました。
激しい爆撃の下では生と死は紙一重でした。
【平原篤さん(95)】
「空襲で機銃掃射って、バリバリバリ!って急襲する。ヤシの木がこんなに小さいのに体を小さくして隠れたり、べたっと伏せたりしていた。毎日空襲があるとやけん。『こんだ死んだ』『こんだ死んだ』って思ったのよ」
16歳だった平原さんは同世代の仲間の死を目の当たりにします。
【平原篤さん(95)】
「爆弾の破片があるわけたい、破裂してピューピューと飛んでくる。当たったら死ぬわけよ臓物、ここの臓物がベラっとひっと出てきて倒れる。仲間とか色々見てきた」
さらに追い打ちをかけるように日本軍を苦しめたのが高熱が出る感染症の“マラリア”です。
内地から食糧や薬が満足に輸送出来ず、感染した場合、重症化する兵隊も多く、毎日のように死者が出ていました。
【平原篤さん(95)】
「もう熱が出てつらくなると飯も何も食べきれないから痩せて骨ばかりになって死ぬ。ちょっとまあ、思い出してたら本当に…うん。仲間がいたが、死んでしまった。『元気に内地へ帰ろうの』と話していたけどね、それでも亡くなって、マラリアで」
太平洋戦争で亡くなったとされる日本軍の戦没者は約230万人。
一説では病気や餓えによる戦病死が6割を占めるといわれています。
幸いにも平原さんは感染することなく終戦を迎えました。
終戦から約8カ月後、汽車で佐賀に戻った平原さん。
迎えに来た兄は泣いて喜んでくれました。
【平原篤さん(95)】
「空襲を受けてやおーなかった(大変だった)ろうなとおっとろしか(恐ろしかった)ろうなと言っていた。それでも元気に帰ってきたからよかったなと」
多くの友が戦死するなかでの帰還。
当時のことを思い出すと今も、自責の念にかられるといいます。
【平原篤さん(95)】
「ちょっともう何とも言えんね…仲間が死んで、自分ばかり生きとったということに後悔はあるよやっぱり『すまんなぁ』と思うよ」
戦後は農家となり、2人の子供や孫に恵まれた平原さん。
これまでラバウルで目にした惨劇はあまり人に聞かせることはありませんでした。
【平原篤さん(95)】
「若者に話しても本当のことと思わないよ。『がんやったばい』と言っても本当のことと思わないさ。だからおいもあんまり言わない。黙っている。聞かれたら『こうだった』と言ってもいいけれど若者に話しても本当のことと思わないもん。『こうだったばい』と言うだけじゃダメ…」
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