佐賀のニュース
朝鮮戦争とベトナム戦争に関わった経験を初めて語る アメリカ軍用船の乗組員だった男性【戦争の記憶】
2022/10/11 (火) 13:00
サガテレビでは、「戦争の記憶」を次世代へ語り継ぎ、平和について考える取材を続けています。
太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争と3度の戦火をくぐり抜けた小城市の92歳の男性。公式には日本は参戦していない朝鮮戦争とベトナム戦争に関わった経験を初めて語りました。
【山口薫さん(92)】
「今の気持ちは、戦争は人間の殺し合いやけんね。私は好まん」
しっかりとした口調で語るのは山口薫さん92歳。1930年・昭和5年佐賀市で生まれました。太平洋戦争が終結した1945年、佐賀工業高校に通っていた山口さんは、昭和天皇が戦争終結を伝える玉音放送を防空壕で聞きました。
「日東航機てあったでしょ。飛行機の尾翼を作りよった。学徒動員で。負けたということがピンとこなかった。絶対日本は負けない、という確信の上で育っているからね」
終戦後、このまま学校に通うより海の仕事をしようと考えた山口さんはある決断をします。
「佐賀工業は2年で中退。海が好きやったから唐津の海員学校に行った。そのうち頑張ってアメリカをぶっちぎってやるわ、という気持ちはあった」
1年間、航海学や気象学など船と海に関するあらゆることを学び卒業後は知人の勧めで横浜の船舶会社に就職。
「”ドル稼ぎ”で船に乗らんか、と。船に乗るのは間違いない、アメリカの船とは思わんかった。”ドル稼ぎ”て言われてね」
1950年、山口さんが横浜から乗ったのはアメリカ陸軍の軍用船でした。当時、朝鮮半島ではソ連・中国の後ろ盾がある北朝鮮と、アメリカを始めとした国連軍が支援する大韓民国が激しい戦いを繰り広げていました。いわゆる朝鮮戦争です。
日本は公式にはこの戦いに加わっていません。しかし、戦線から離れた場所では日本人が関わる場合もありました。
「朝鮮動乱の捕虜を輸送していた。巨済島というのがあった。そこの捕虜収容所に運んでいた。今でいえば北朝鮮の人。それに付随する中国の人。島そのものが捕虜収容所。捕虜とはしゃべらん。しゃべったことない。しゃべるなと。かん口令ひかれとった」
山口さんは1952年までの2年間この船に乗りました。戦争が一段落すると20人ほどいた日本人の船員たちは解雇となり山口さんも船を降りました。しかし、やはり海の仕事がしたいと海上自衛隊に入隊し、10年ほど勤めたあと民間の船舶会社に就職。そしてまたも戦地に赴くことになります。
「休暇で家に帰っているときに1週間くらいしたら官報電報がきたんですよ。え、今頃?…官報というのは陸海軍があったときに関係者だけの電報。官報電報がくるなんて思わんからね。佐世保MSTSに出頭せよ、と」
1965年昭和40年、山口さんが佐世保港から向かった先はベトナムでした。当時、ベトナムでは南北に分かれ、ソ連や中国の支援を受けた北ベトナムと、アメリカなどが直接軍を送った南ベトナムとで泥沼の戦争に陥っていました。いわゆるベトナム戦争です。山口さんはまたもアメリカ陸軍の船に乗り組むことになりました。
「朝鮮動乱の後、日本でいう軍属、みたいな格好になっていたんでしょうね。船長の命令を私が操舵手に伝えるのが主な仕事。船では爆弾とか運んでいた」
すぐ近くでは戦争が繰り広げられていましたが、山口さんはあまり実感がなかったと話します。
「怖い、という気はあまりなかった。いわば金儲け、金をもらうから従事している、という感じ。船が攻撃されて弾が当たったら150ドル。危険手当。びっくり手当。これが戦争かなと」
大学を出た国家公務員の月給が2万円弱の時代、月給は約480ドル、日本円にして17万円余りでした。山口さんは8年ほど乗り組み、その後友人と横浜で貿易会社を立ち上げ、62歳まで船乗りとして航海を続けました。
定年後は、ふるさと佐賀でボランティア活動に取り組み、そして去年から小城市にあるシニアハウスに妻の康子さんと入居。現在は、夫婦仲良く、穏やかな毎日を過ごしています。
朝鮮戦争、ベトナム戦争に日本人として関わっていたことはこれまで誰にも言ったことはありませんが、50年余り経ち「そろそろいいか」との気持ちで取材に応じたといいます。
「90過ぎまで生きとるということは、人と人の殺し合いはやめなさい、ということを伝えろ、と言われているような気もする。世界平和でいきたいね」
太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争と3度の戦火をくぐり抜けた小城市の92歳の男性。公式には日本は参戦していない朝鮮戦争とベトナム戦争に関わった経験を初めて語りました。
【山口薫さん(92)】
「今の気持ちは、戦争は人間の殺し合いやけんね。私は好まん」
しっかりとした口調で語るのは山口薫さん92歳。1930年・昭和5年佐賀市で生まれました。太平洋戦争が終結した1945年、佐賀工業高校に通っていた山口さんは、昭和天皇が戦争終結を伝える玉音放送を防空壕で聞きました。
「日東航機てあったでしょ。飛行機の尾翼を作りよった。学徒動員で。負けたということがピンとこなかった。絶対日本は負けない、という確信の上で育っているからね」
終戦後、このまま学校に通うより海の仕事をしようと考えた山口さんはある決断をします。
「佐賀工業は2年で中退。海が好きやったから唐津の海員学校に行った。そのうち頑張ってアメリカをぶっちぎってやるわ、という気持ちはあった」
1年間、航海学や気象学など船と海に関するあらゆることを学び卒業後は知人の勧めで横浜の船舶会社に就職。
「”ドル稼ぎ”で船に乗らんか、と。船に乗るのは間違いない、アメリカの船とは思わんかった。”ドル稼ぎ”て言われてね」
1950年、山口さんが横浜から乗ったのはアメリカ陸軍の軍用船でした。当時、朝鮮半島ではソ連・中国の後ろ盾がある北朝鮮と、アメリカを始めとした国連軍が支援する大韓民国が激しい戦いを繰り広げていました。いわゆる朝鮮戦争です。
日本は公式にはこの戦いに加わっていません。しかし、戦線から離れた場所では日本人が関わる場合もありました。
「朝鮮動乱の捕虜を輸送していた。巨済島というのがあった。そこの捕虜収容所に運んでいた。今でいえば北朝鮮の人。それに付随する中国の人。島そのものが捕虜収容所。捕虜とはしゃべらん。しゃべったことない。しゃべるなと。かん口令ひかれとった」
山口さんは1952年までの2年間この船に乗りました。戦争が一段落すると20人ほどいた日本人の船員たちは解雇となり山口さんも船を降りました。しかし、やはり海の仕事がしたいと海上自衛隊に入隊し、10年ほど勤めたあと民間の船舶会社に就職。そしてまたも戦地に赴くことになります。
「休暇で家に帰っているときに1週間くらいしたら官報電報がきたんですよ。え、今頃?…官報というのは陸海軍があったときに関係者だけの電報。官報電報がくるなんて思わんからね。佐世保MSTSに出頭せよ、と」
1965年昭和40年、山口さんが佐世保港から向かった先はベトナムでした。当時、ベトナムでは南北に分かれ、ソ連や中国の支援を受けた北ベトナムと、アメリカなどが直接軍を送った南ベトナムとで泥沼の戦争に陥っていました。いわゆるベトナム戦争です。山口さんはまたもアメリカ陸軍の船に乗り組むことになりました。
「朝鮮動乱の後、日本でいう軍属、みたいな格好になっていたんでしょうね。船長の命令を私が操舵手に伝えるのが主な仕事。船では爆弾とか運んでいた」
すぐ近くでは戦争が繰り広げられていましたが、山口さんはあまり実感がなかったと話します。
「怖い、という気はあまりなかった。いわば金儲け、金をもらうから従事している、という感じ。船が攻撃されて弾が当たったら150ドル。危険手当。びっくり手当。これが戦争かなと」
大学を出た国家公務員の月給が2万円弱の時代、月給は約480ドル、日本円にして17万円余りでした。山口さんは8年ほど乗り組み、その後友人と横浜で貿易会社を立ち上げ、62歳まで船乗りとして航海を続けました。
定年後は、ふるさと佐賀でボランティア活動に取り組み、そして去年から小城市にあるシニアハウスに妻の康子さんと入居。現在は、夫婦仲良く、穏やかな毎日を過ごしています。
朝鮮戦争、ベトナム戦争に日本人として関わっていたことはこれまで誰にも言ったことはありませんが、50年余り経ち「そろそろいいか」との気持ちで取材に応じたといいます。
「90過ぎまで生きとるということは、人と人の殺し合いはやめなさい、ということを伝えろ、と言われているような気もする。世界平和でいきたいね」
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