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【戦争の記憶】シベリアに3年2か月抑留 日本に帰りたい一念で生きながらえた
2022/08/15 (月) 11:59
太平洋戦争が終わってから77年。日本はその後、他国と戦火を交えていませんが、ウクライナ侵攻など戦争・紛争は絶えません。サガテレビが過去に取材した人の記憶を振り返り、改めて戦争、そして平和について考えます。
≪2015年5月13日放送≫
(年齢は放送当時)
戦後、極寒の地シベリアに3年2か月抑留された佐賀市の堤一治さん92歳の体験。
「軍隊はきびしいのがわかっていたから、いくら苦しくても耐えていこうと。シベリアはとにかくつらいのは毎日毎日、零下40度までは仕事に出ないといけない。腹が痛い。寒さと飢え。これが一番つらかった」
佐賀市の堤一治さん92歳。堤さんは1943年、昭和18年3月に徴兵され、陸軍の兵隊として、中国東北部にあり日本が事実上支配していた満州に赴きます。訓練や爆弾の処理などにあたり、2年余りが過ぎた1945年・昭和20年8月、日本の敗戦が決定的となっていたこの時期に、旧ソ連は不可侵条約を破棄し、満州に侵攻、多くの日本兵を捕虜としました。堤さんもその一人で、ほかの捕虜と同じようにソ連領内に送られ、クイブイシエフカという収容所で土木作業や食料の生産などの重労働をさせられます。いわゆるシベリア抑留です。
「零下40度まではどんなことがあっても作業に駆り出される。凍てつくなんて生易しいものではない。顔だけ出ているので、刺されるようにちかちかする。それから40度を超してくると、45度、47度。たまには50度になったこともあるが、息を吸いたくない。吸わないと死ぬから仕方なく吸う。吸ったところから、針に刺されたようになって肺に行くのがわかる」
日々、過酷な労働に耐える抑留者たちに与えられる食事は、驚くほどわずかなものでした。
「350グラムの黒パンですよ。厚さがこれくらい。1日分。実のあるものはこれだけ。それにスープがつくが、スープは中身がない。汁だけ。夜は食べ物、申し訳ないけど、はずかしい、食べ物の夢ばかり。ごちそうが出てくる。これはよかったなと食べる。口に入れた途端目が覚める。がっかり。そればっかり。春にタンポポが出る。汁ばかりだから、タンポポの葉をちぎって汁の中に入れて、食べていた。苦いのなんの。それで重労働させる。持つわけがない」
貧しい食事と重労働に耐えること3年2カ月。堤さんは1948年・昭和23年11月、ようやく帰国することになりました。帰国のことを抑留者はロシア語でダモイと呼んでいました。
「ナホトカの港にダモイの船が、日の丸ついたのが着いている。うれしかった。涙が出た。いまでも涙が出る。本当にうれしかった」
堤さんは京都の舞鶴港に上陸。5年8カ月ぶりの日本でした。
「婦人会がイモを蒸したのを持ってきてくれた。その芋の味がこんなにおいしいものが世の中にあるのかというくらいおいしかった。今でも忘れない。どんなにごちそう食べてきたよりおいしかった」
何とかして日本に帰りたい一念で生きながらえた堤さん。戦場から両親にあてた数多くの手紙とともに、舞鶴に着いた時に送った電報が今も残っています。陸路たどり着いた博多駅では、その電報を受け取った母親が出迎えてくれていました。
シベリアに抑留された57万5千人のうち、5万5千人は飢えや病気で倒れ、生きて日本の土を踏むことはできませんでした。
戦後70年。これまで抑留の体験を話してこなかった堤さんは、こう語ります。
「われわれのようなつらい目に遭った者は、言いたくないのが当たり前。私もそうだった。しかし、あったことを伝えていかないと後の人はわからない。やっぱり伝えていかないといけないなと。どういう理屈があっても戦争はだめ。勝っても負けてもだめ。多くの人が、勝ったほうも負けたほうも犠牲者が出ます。つらい目にあいます。国民もその通りです。だから戦争は絶対だめです」
終
≪2015年5月13日放送≫
(年齢は放送当時)
戦後、極寒の地シベリアに3年2か月抑留された佐賀市の堤一治さん92歳の体験。
「軍隊はきびしいのがわかっていたから、いくら苦しくても耐えていこうと。シベリアはとにかくつらいのは毎日毎日、零下40度までは仕事に出ないといけない。腹が痛い。寒さと飢え。これが一番つらかった」
佐賀市の堤一治さん92歳。堤さんは1943年、昭和18年3月に徴兵され、陸軍の兵隊として、中国東北部にあり日本が事実上支配していた満州に赴きます。訓練や爆弾の処理などにあたり、2年余りが過ぎた1945年・昭和20年8月、日本の敗戦が決定的となっていたこの時期に、旧ソ連は不可侵条約を破棄し、満州に侵攻、多くの日本兵を捕虜としました。堤さんもその一人で、ほかの捕虜と同じようにソ連領内に送られ、クイブイシエフカという収容所で土木作業や食料の生産などの重労働をさせられます。いわゆるシベリア抑留です。
「零下40度まではどんなことがあっても作業に駆り出される。凍てつくなんて生易しいものではない。顔だけ出ているので、刺されるようにちかちかする。それから40度を超してくると、45度、47度。たまには50度になったこともあるが、息を吸いたくない。吸わないと死ぬから仕方なく吸う。吸ったところから、針に刺されたようになって肺に行くのがわかる」
日々、過酷な労働に耐える抑留者たちに与えられる食事は、驚くほどわずかなものでした。
「350グラムの黒パンですよ。厚さがこれくらい。1日分。実のあるものはこれだけ。それにスープがつくが、スープは中身がない。汁だけ。夜は食べ物、申し訳ないけど、はずかしい、食べ物の夢ばかり。ごちそうが出てくる。これはよかったなと食べる。口に入れた途端目が覚める。がっかり。そればっかり。春にタンポポが出る。汁ばかりだから、タンポポの葉をちぎって汁の中に入れて、食べていた。苦いのなんの。それで重労働させる。持つわけがない」
貧しい食事と重労働に耐えること3年2カ月。堤さんは1948年・昭和23年11月、ようやく帰国することになりました。帰国のことを抑留者はロシア語でダモイと呼んでいました。
「ナホトカの港にダモイの船が、日の丸ついたのが着いている。うれしかった。涙が出た。いまでも涙が出る。本当にうれしかった」
堤さんは京都の舞鶴港に上陸。5年8カ月ぶりの日本でした。
「婦人会がイモを蒸したのを持ってきてくれた。その芋の味がこんなにおいしいものが世の中にあるのかというくらいおいしかった。今でも忘れない。どんなにごちそう食べてきたよりおいしかった」
何とかして日本に帰りたい一念で生きながらえた堤さん。戦場から両親にあてた数多くの手紙とともに、舞鶴に着いた時に送った電報が今も残っています。陸路たどり着いた博多駅では、その電報を受け取った母親が出迎えてくれていました。
シベリアに抑留された57万5千人のうち、5万5千人は飢えや病気で倒れ、生きて日本の土を踏むことはできませんでした。
戦後70年。これまで抑留の体験を話してこなかった堤さんは、こう語ります。
「われわれのようなつらい目に遭った者は、言いたくないのが当たり前。私もそうだった。しかし、あったことを伝えていかないと後の人はわからない。やっぱり伝えていかないといけないなと。どういう理屈があっても戦争はだめ。勝っても負けてもだめ。多くの人が、勝ったほうも負けたほうも犠牲者が出ます。つらい目にあいます。国民もその通りです。だから戦争は絶対だめです」
終
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