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【戦争の記憶】 「同じ日本人を殺して自分が生きて帰る。それが戦争」 戦後タシケントに3年半抑留

2022/08/11 (木) 15:30

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太平洋戦争が終わってから77年。日本はその後、他国と戦火を交えていませんが、ウクライナ侵攻など戦争・紛争は絶えません。サガテレビが過去に取材した人の記憶を振り返り、改めて戦争、そして平和について考えます。

≪2018年8月10日放送≫
(年齢は放送当時)

「人間生きるか死ぬかの境目にたったら人間じゃない。動物と変わらん。同じ日本人を殺して自分が生きて帰る。それが戦争」

江北町に住む山下博さん97歳。山下さんは1941年・21歳のとき徴兵され当時日本が事実上支配していた中国東北部の満州に赴きます。ソ満国境警備隊としてソビエト連邦と満州の国境牡丹江に配属されました。

「勝ったときは威張っていた。勝ったときは良かったよ日本」

1945年、日本の敗戦が決定的となっていたこの時期にソ連は不可侵条約を破棄し満州に侵攻。多くの日本兵を捕虜としました。ソ連に抑留された日本人は57万5千人にのぼり、そのうち2万3千人が日本から6000キロ以上離れたウズベキスタンに連行されました。山下さんもその一人でウズベキスタンの首都タシケントのアングレン地区収容所で炭鉱の仕事を課せられます。

「ソ連という国は人間の冷たい国やった。捕虜には食糧がきよったと。それをソ連の兵隊や将校が持っていくので自分たちは残りだけ」

ソ連の監視の中食糧の確保も命がけでした。

「泥棒せな食べられんもん。ここ(脚)に何でもかんでも隠した。ジャガイモとか。風呂場で焚いて食べよった」

盗みがばれれば即処刑です。

「いざというときは殺してでも食べないかん。泣いても泣かれん」

貧しい食事で栄養失調になる人が多い中、伝染病が流行ります。

「マラリアっていう病気がある。かかった人はほとんど死んでしまった。穴を掘ってそこにお経もあげない。イヌの子捨てるように捨てられよった。哀れなもんやった。こんなところで死ぬもんか。日本に帰る。それだけ頭に持っていた」

ウズベキスタンでは800人を超える人が亡くなり、ソ連が行った抑留全体で5万5千もの人が生きて日本に帰る夢を断たれました。抑留からおよそ3年半がたった1948年、山下さんは帰国が決まり京都の舞鶴港に上陸しました。7年ぶりの日本でした。

「みんな泣きよった。日本に帰ったら日本の飯がうまかった」

ずっと帰りを待っていた家族。白いご飯をおなかいっぱい食べたそうです。帰国直後山下さんは戦死した兄の妻と結婚し、4人の子どもを育てます。

「勉強をさせんばいかんという頭があった。自分ができなかったから。勉強しないと今からの生存競争で生きていかれん」

山下さんは炭鉱の仕事で4人の子どもを大学に進学させました。玄孫もいる今、平和の大切さをかみしめます。

「戦争はせんが一番良かと。平和が一番良か」



※今回取材にご協力いただいた山下さんですが、これまで、家族にも抑留の話をしたことがなかったそうです。こうした話は若い人たちに伝えるべきだという、家族の思いもあり、取材に応じていただきました。
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