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【戦争の記憶】 陸軍航空隊整備兵 「片道だけしか燃料入れてやれなかった」

2022/08/11 (木) 15:30

太平洋戦争が終わってから77年。日本はその後、他国と戦火を交えていませんが、ウクライナ侵攻など戦争・紛争は絶えません。サガテレビが過去に取材した人の記憶を振り返り、改めて戦争、そして平和について考えます。

≪2014年10月28日放送≫
(年齢は放送当時)

佐賀市在住の西岡勇さん94歳。太平洋戦争中、陸軍航空隊の整備兵として南方戦線に赴きました。

「16年の7月31日が私のちょうど20歳の誕生日で、その時に徴兵検査を受けて、その当時は20歳になった人はほとんど、誰でも軍隊に行かなきゃいけなかった。義務で。徴兵検査を受けて、外地に行くときには家族はみんな『お前たちは名誉で行くのだから、名誉の戦死をして帰ってこい』と言っていた」

西岡さんは、入隊後、半年間訓練を受けると、当時、日本の占領下だったシンガポールへ赴き戦闘機などの整備を担当します。太平洋戦争開戦当時、日本は快進撃を続けていました。しかし、アメリカをはじめとする連合軍の反撃が本格化すると、多くの戦力を失った日本軍は、航空機の搭乗員もろとも敵艦に体当たりさせる特別攻撃いわゆる特攻を本格化させます。

「燃料がないから片道しか入れてやらないわけ。石油の一滴は血の一滴と言って、いよいよない時分だったから、片道だけしか入れない私たちは整備兵だったから、たまには『整備員さん、燃料をもう少し入れてもらえないだろうか』と言われた。それでも、私は上官から片道だけしか入れてはいかんということで、片道だけしか入れてやれなかった」

特攻に出撃する搭乗員の多くは10代後半から20代の若者でした。

「パイロットの感じは、普通の感じだったり、涙を流したりしている者もいた。『お父さん、お母さん今まで育ててくれてありがとう。私たちは今から、行きますから』と言って、みんなに声をかけて行っていた」

特攻では陸・海軍合わせて約6000人の搭乗員が戦死しましたが、その犠牲もむなしく、昭和20年1945年8月15日、日本は連合国に無条件降伏します。敗戦国となった日本。しかし当時、オランダの植民地支配から完全な独立を目指していたインドネシアの人々は思いがけない提案をします。

「終戦を聞いてインドネシア軍の上の人が、あなたたちはせっかく戦争で私たちの国に来て、私たちを独立させてくれてありがとう。今度、私たちの軍隊に入って教育してくれないかと言う人がいっぱいいて。10人ぐらいですかね、内地(日本)に帰る。あとの半分は現地の兵隊に残る」

西岡さんは帰国しましたが、インドネシアの独立戦争には1000人を超える日本兵が参加し半数が戦死したとされています。
終戦から69年。西岡さんは、先の大戦をこう振り返ります。

「自分で殺したことはない。向こうは殺さないといけない、殺さないと自分が殺されるから戦争というのは、人殺しです。それで決着する。戦争は絶対反対。私は反対を叫んで死にたいな」

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