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「一面火の海だった」 長崎の爆心地から3.4キロの工場で被爆した男性が見た衝撃の光景【佐賀県】
2022/08/09 (火) 18:30
長崎県に原爆が投下されて77年。
爆心地から3.4キロの工場で被爆した男性が佐賀市にいます。
「一面火の海だった」という当時15歳の少年が見た衝撃の光景とは。
【松永勝利さん(92)】
「黙とう中何を願ったのか」「毎年この日に思うこと」
昭和20年1945年8月9日、アメリカ軍が長崎に原子爆弾を投下。7万3千人余りの命が失われたとされています。
【松永勝利さん】
「オレンジ色の一時パパパパパ…ってしたです。目の開かんごとね」
佐賀市に住む松永勝利さん92歳。松永さんは長崎市で生まれ育ち、15歳の時、長崎市飽の浦町にある「三菱長崎造船所」で仕事をしていました。
【松永勝利さん】
「外板っていう船の溶接で継いでずーと継ぐわけ。それをしていた。突然明かりがピカーっとした。そいから爆風の来て、もうほとんど屋根瓦でん何でんね、よその方は無かったわけです。そいでもう、瓦でもなんでも飛んでなくなってしもうとる」
強烈な爆風で崩れた壁。爆心地から3.4キロ離れた工場も一部が崩壊しました。
松永さんは飛んできた部品が、手や足に直撃しながらも無我夢中で防空壕に避難しました。
日が暮れ始めたころおそるおそる外に出た松永さん。自宅に帰ろうとした時ある異変に気付きました。
【松永勝利さん】
「渡海船が通っていませんでした。大波止というところ港まで渡ろうでな、渡海船で渡らんばいかん。ちょっともう途切れて行かんもんやけん徒歩で…」
松永さんの自宅は浦上川の対岸にある高平町。
川を渡るため、松永さんは工場から約2キロ北にある「稲佐橋」を目指しました。そこには衝撃の光景が。
【松永勝利さん】
「浦上の方はもう全部火の海やけん帰りようもない。そいでまあ稲佐橋を無事渡って、渡ったところは全部火の海で燃えています。燃えてずーっとね。一面火の海」
火の海のなかで、松永さんが目にしたのは原爆の熱線や爆風でやけどや傷を負った多くの被爆者たちの姿でした。
【松永勝利さん】
「焼けてから半分洋服でもね、燃えて助けを求める人もおったですよ。半分焼け焦がれて、助けようと思うてもちょっと、火の海で普通の者じゃどうにもされん」
「稲佐橋」から自宅まではあと3キロ余り。しかし炎が行く手を阻みます。
【松永勝利さん】
「「こんなにひどいのは初めて」と思った、とにかくもうほとんど家は燃えてしもうとる」
燃え続けるまちを抜け何とか自宅にたどり着いた時は夜になっていました。
【松永勝利さん】
「もうちょっと途方にくれました水も全然飲まれんけん。家にたどり着いて、もうぐったりなってしもうて、疲れてね。「よかったね」て抱き合った、父もようしてくれた…やっぱり「よう帰られたな」て今でも思いますね」
原爆が投下された6日後の1945年8月15日。松永さんはラジオで終戦を知ります。
【松永勝利さん】
「戦争に負けた後はどんな風になるとやろかって思いましたね」
戦後は親戚のいる佐賀市に移り住み、約60年間左官職人として働いた松永さん。これまで被ばくした経験を語ることはほとんどなかったといいます。
【松永勝利さん】
「考えとうなかごた、ははは、思い出したくもなかごたですね…とにかく、被ばくにおうた人も、全部焦がれた人でんいろいろな人がおった、半分やけどした人でんね。戦争のあったからこそこんなみじめな目に合うけんね、平和に暮らすようにしてもらいたか」
爆心地から3.4キロの工場で被爆した男性が佐賀市にいます。
「一面火の海だった」という当時15歳の少年が見た衝撃の光景とは。
【松永勝利さん(92)】
「黙とう中何を願ったのか」「毎年この日に思うこと」
昭和20年1945年8月9日、アメリカ軍が長崎に原子爆弾を投下。7万3千人余りの命が失われたとされています。
【松永勝利さん】
「オレンジ色の一時パパパパパ…ってしたです。目の開かんごとね」
佐賀市に住む松永勝利さん92歳。松永さんは長崎市で生まれ育ち、15歳の時、長崎市飽の浦町にある「三菱長崎造船所」で仕事をしていました。
【松永勝利さん】
「外板っていう船の溶接で継いでずーと継ぐわけ。それをしていた。突然明かりがピカーっとした。そいから爆風の来て、もうほとんど屋根瓦でん何でんね、よその方は無かったわけです。そいでもう、瓦でもなんでも飛んでなくなってしもうとる」
強烈な爆風で崩れた壁。爆心地から3.4キロ離れた工場も一部が崩壊しました。
松永さんは飛んできた部品が、手や足に直撃しながらも無我夢中で防空壕に避難しました。
日が暮れ始めたころおそるおそる外に出た松永さん。自宅に帰ろうとした時ある異変に気付きました。
【松永勝利さん】
「渡海船が通っていませんでした。大波止というところ港まで渡ろうでな、渡海船で渡らんばいかん。ちょっともう途切れて行かんもんやけん徒歩で…」
松永さんの自宅は浦上川の対岸にある高平町。
川を渡るため、松永さんは工場から約2キロ北にある「稲佐橋」を目指しました。そこには衝撃の光景が。
【松永勝利さん】
「浦上の方はもう全部火の海やけん帰りようもない。そいでまあ稲佐橋を無事渡って、渡ったところは全部火の海で燃えています。燃えてずーっとね。一面火の海」
火の海のなかで、松永さんが目にしたのは原爆の熱線や爆風でやけどや傷を負った多くの被爆者たちの姿でした。
【松永勝利さん】
「焼けてから半分洋服でもね、燃えて助けを求める人もおったですよ。半分焼け焦がれて、助けようと思うてもちょっと、火の海で普通の者じゃどうにもされん」
「稲佐橋」から自宅まではあと3キロ余り。しかし炎が行く手を阻みます。
【松永勝利さん】
「「こんなにひどいのは初めて」と思った、とにかくもうほとんど家は燃えてしもうとる」
燃え続けるまちを抜け何とか自宅にたどり着いた時は夜になっていました。
【松永勝利さん】
「もうちょっと途方にくれました水も全然飲まれんけん。家にたどり着いて、もうぐったりなってしもうて、疲れてね。「よかったね」て抱き合った、父もようしてくれた…やっぱり「よう帰られたな」て今でも思いますね」
原爆が投下された6日後の1945年8月15日。松永さんはラジオで終戦を知ります。
【松永勝利さん】
「戦争に負けた後はどんな風になるとやろかって思いましたね」
戦後は親戚のいる佐賀市に移り住み、約60年間左官職人として働いた松永さん。これまで被ばくした経験を語ることはほとんどなかったといいます。
【松永勝利さん】
「考えとうなかごた、ははは、思い出したくもなかごたですね…とにかく、被ばくにおうた人も、全部焦がれた人でんいろいろな人がおった、半分やけどした人でんね。戦争のあったからこそこんなみじめな目に合うけんね、平和に暮らすようにしてもらいたか」
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